昭和20年3月17日未明の神戸大空襲の出在家町協議会が建立した慰霊碑の記事です。でも・、個人的な思い出を書いてみたい。記憶は儚く、夢幻のごとく。
事実は、米軍の夜間空襲により多くの人々が無くなられたこと。
私が、この慰霊碑に愛着を持つようになったのは、ある人との思い出から。彼の妻と二人の子供は、空襲で死んだらしい。彼の苦悩は死体を見つけられなかったこと。
昭和20年3月17日未明の神戸大空襲の出在家町協議会が建立した慰霊碑の記事です。でも・、個人的な思い出を書いてみたい。記憶は儚く、夢幻のごとく。 事実は、米軍の夜間空襲により多くの人々が無くなられたこと。 私が、この慰霊碑に愛着を持つようになったのは、ある人との思い出から。彼の妻と二人の子供は、空襲で死んだらしい。彼の苦悩は死体を見つけられなかったこと。
彼は鉄工所を経営していて、16日に明石に公務出張を命じられていた。そして、かねてからの約束で,此処のトンネルが待ち合わせ場所とした。翌未明、東の空が赤く染めれれて悲劇を予感した。たどり着いた、大輪田橋のトンネルには、妻と子は居らず、死体が運河や辺り一帯にあふれていた。何日も、妻子の行方を捜したが、ついに見つけれなかった。
彼が愛犬「ラーラ」と散歩中の風景。ラーラとは映画「ドクトルジバゴ」のヒロインの名。戦争で生き別れとなった男と女と子の物語だ。
彼は、昭和天皇が早く終戦をしてくれればよかったのに、なぜ長引かせたのかと、よく嘆いていた。当時は、天皇陛下は軍部に利用されたという説明がなされていた。不思議に思っていたが、「天王の陰謀」という本が出た頃であった。
昭和天皇が深く戦争に関わっていたという本だったろうか。わが父も興奮して読んでいた。大東亜戦争という大義の前に、妻子供を死なせた彼に意味は無かった。
普通なら、神戸大空襲慰霊碑であるべきなのに、戦災殉難者慰霊碑となった所以であろう。また、妻子のために慰霊碑を作った事のいいわけでもあろうか。
慰霊碑の歴史
1972年に木の慰霊塔が建立された。